YUKICHI KIBUN

気のままブログ 

朝井リョウが怖すぎる

朝井リョウ、怖い
これまで朝井リョウさんについて「怖い!」と思ったのは『何者』を読んだ時で、再び「怖い!」と思ったのは『発注いただきました!』に収録されている短編「贋作」を読んだ時だった。
嫌な気分になるミステリーを「イヤミス」と呼ぶことがあるが、それに近い読後感である。恐ろしいものが襲ってくるような怖さではなくて、身の回りにあるものが実は恐ろしかったと気づいた時の怖さ、とでも言えば良いのだろうか。
朝井リョウといえば、映画も話題となった『桐島、部活やめるってよ』に代表されるような青春小説が一番に挙げられるだろう。私は彼の『もういちど生まれる』や『少女は卒業しない』もとても好きだ。しかし、朝井リョウ作品の真の魅力は、人間の理解されたい、認められたい、賞賛されたい、そんな感情を生々しく描いているところだと私は思う。

『何者』と「贋作」、この二作品を読んで、私は確信する。
朝井リョウは名前の付かない悪意を描くのが上手い。

『何者』では、就活生の「本音を隠しながら一方では発信し、他人を見下すことで自分を守ろうとする悪意」を、「贋作」では「他者を自分をよく見せるためのアピールに利用する悪意」を映し出している。

この二作品を初めて読んだのがちょうど就職活動を始める前〜就職活動中という時期だったことも自分自身に大きな影響を与えたと思う。自分を飾ること。それを自然と行うことに慣れていくこと。その怖さと辛さを私は身に沁みて知ったからだ。

 

●選ぶ言葉、選ばない言葉
『何者』では内定の出ない主人公が、自分よりも先に内定をもらった友人の会社の粗探しをしてしまう。就職活動なんて興味ないという顔をしていた知人がこっそり就活を始めていたのを馬鹿にしたり、就職活動を頑張るアピールをする友人を内心笑ったり。それをSNSの裏アカに書き込むのだ。
今までは、「じぶん」は自分で定義してきた。普通に日々を過ごすぶんには、自分が納得できていればそれで良かった。けれど、就職活動など、可視化された「じぶん」を見せなければいけない時にはそういうわけにはいかなくなった。努力という「過程」が「結果」へと結びついた人生の提示。マニュアル化した人生の成功と失敗。そういうものが求められる世界に来たのだ。

私たちの人生は、そんなに綺麗なものなのか。
違う、そうじゃない。
何度も書き直したせいでくしゃくしゃになったノートのページを破り捨てたことのない人などいるのか。

それでも、飾った人生を語らなければならない。私たちは。だからといって、それが私たちのすべてではない。心の中で大切に栞にした宝物のようなよろこびや、閉じ込めて鍵をかけたかなしみだって持っている。でも、他人と比べて羨んだり卑屈になったり。そんな感情を抱えて生きている人こそ、泥臭い人間のありのままの姿なのだと。「何者」になんかなれない、そのことに主人公が気づいたとき、私たちも気づくのだ。

 

「だって、短く簡潔に自分を表現しなくちゃいけなくなったんだったら、そこに選ばれなかった言葉のほうが、圧倒的に多いわけだろ」

「だから、選ばれなかった言葉のほうがきっと、よっぽどその人のことを表してるんだと思う」(p204)

 

●映えなくてもいい、自分の絵のまま
また、SNSが普及したことで、「じぶん」に対する評価が言葉や文字で表されやすくなった。それとともに、「分かりやすくすごい」ものが安易にもてはやされるようになったと感じる。SNSのフォロワー数が多い人。たくさんの「いいね!」が付けられた投稿。
「贋作」では、主人公が出会った、自分をよく見せようとする筆職人と、それと似たものを感じる書道家の時永憂衣(ときながうい)が登場する。

この作品では、自分をよく見せるパフォーマンスのために他者を利用することを「額縁にする」と表現していた。それがすごくしっくり来た。でも、その行為が怖いとか嫌いとかイヤだなとか思うんじゃなくて、自分も無意識にそれをしてしまっているかもしれないという気づきの方が怖かった。自分以外のもので自分という絵を飾り立てていたかもしれない。主人公と同じ「こうはなりたくはない」という気持ちと、「自分もこうだったかもしれない」という表裏一体の感情を抱いた。
『発注いただきました!』には二〇作品が収録されているが、「贋作」はその最後を飾る作品である。正直他の作品は企業とのコラボということで、「なるほど、お題をこういう風に持って来たのか〜」とサクサク読めていたのだが、この作品で度肝を抜かれた。これを最後に持ってくるという胆力、恐ろしい。

 

●名前の付かない悪意
自己顕示欲。承認欲求。SNSが普及して瞬く間に広まったこの言葉とは、少し違うと思う。朝井リョウのこれらの作品で描かれたのは、どちらも、名前を付けることのできない悪意だと思うからだ。そもそも、悪意とは呼べないものなのかもしれない。生きていくために必要な、自分を他の誰でもない「じぶん」として守るための処世術なのかもしれない。それでも、その処世術を無意識に行っているかもしれない私たちを、朝井リョウは見透かすのだ。
それが、作家・朝井リョウの怖さだと、私は思う。